一度も飛行機が来ないまま終戦を迎えた幻の飛行場「相馬飛行場」【七尾市 田鶴浜町】
のとルネアンバサダー、観光担当のっちです。
能登には幻の飛行場があったということを、知らない方がほとんどでしょう。
その幻の歴史、悲しい歴史故、いまだ細く長く語り継がれる「相馬飛行場」です。
※現在もこの地区に住み、当時のことを知る作井吉雄様にはこの取材に際して多大なる協力をいただきました。
厚く御礼申し上げます。

能登の旧村「相馬(そうま)村」

七尾市伊久留(いくろ)町。ここはかつて鹿島郡相馬(そうま)村という村がありました。

統合・合併を経て現在は七尾市田鶴浜町の相馬地区、という風に地名のみ残されています。

相馬飛行場は、現在の伊久留町に建設されたということです。

低い山、田圃の広がる、美しく長閑な風景の伊久留町です。

「幻」の飛行場

この長閑な地に、飛行場があったことを知っている人はとても少ないと思います。

私も、取材をして初めて知ることばかりでした。

ここには、飛行場が建設されていたという記念碑があります。

なぜ、「幻」と呼ばれるのでしょうか?

海軍航空隊 相馬飛行場跡

相馬飛行場があった場所には、記念碑が建てられています。

こちらは平成15年5月30日に完成しました。

場所は、かつて滑走路のあった位置の全貌を見渡すことが出来、その滑走路の土砂を用いた相馬小学校(平成16年閉校)運動場の一角です。

現在は閉校となっている相馬小学校運動場です。

昭和20年のこと

戦争真っ只中であり、戦局はひっ迫していた昭和20年5月ごろ。

この相馬村に時々海軍の兵士を見かけるようになり、突然「ここに飛行場を造る」と伝えられたそうです。

当時の役場にも通達がなく、村民にとっては寝耳に水の出来事であったそうです。

ここは当時も今もなだらかな平地で、向かいの低い山は砂山です。

その砂を利用して飛行場にするのに適した場所であったようです。

昭和20年、この年は天気の良い日が少なく、低温であったため苗が不足した年でした。

しかし戦時中であり大事な食糧としてひとつの苗も大切にして田圃に植え終えた6月、突然飛行場建設が始まったのです。

大切な苗を植えた田圃を埋め立てられた当時の人々は、お国のためとはいえ、悲しい思いをしたそうです。

ちなみに、埋め立てられる直前に苗は近隣の村の人が抜き取っていったそうです。

一度も飛行機が飛来しなかった相馬飛行場

工事にあたったのは、兵士、労働者、海軍飛行予科練生など400名以上だったそうです。

その多くは近隣の地区の民家に分宿したそうです。

当時を知る70代男性(中能登町瀬戸在住)に、兵士達と一緒に暮らしたその思い出話を伺うことができました。

戦時中であり苦しい生活状況でしたが、炎天下で労作業をする兵士の姿を見て、当時のせいいっぱいの労いを家中で施していたとのこと。立派な兵士さんたちだった、と話されました。

こうして、昭和20年8月14日に相馬飛行場は完成しました。

そして、翌日の8月15日の午後、記念すべき第1番機が飛来する予定でした。

しかし、8月15日正午、敗戦となりました。

これによって飛行機がただの一度も飛来しないまま、相馬飛行場は閉鎖されることになりました。

これが、「幻の」と言われる所以です。

もし、終戦があと何日か、あと何か月か後であったならば、相馬飛行場には何機もの飛行機が飛来し、戦禍は免れなかったかもしれません。今の長閑な伊久留町は無かったかもしれません。

滑走路に使用された板

滑走路には、杉の板が一面に敷かれ、下敷きにはアテの木の角材が使用されていました。

現在はそのほんの一部が記念碑の横に展示されています。

一面に板が敷かれた滑走路。

滑走路は巾50~100m、長さ約1200mもあったそうです。

まだ終戦を迎えていない日、当時の子供たちはその板の上で下駄をはいて

カラン、コロン

という音を楽しんで遊んだそうです。

金持ちの子は下駄、普通の子は草履だったから、金持ちの子の下駄の音をよくいきいていたわ、

と、近くに住む高齢の女性からお話を聞くことができました。

当時ならではの、エピソードですね!

閉鎖後の相馬飛行場

終戦を迎えた相馬飛行場は、すぐさま取り壊しとなったそうです。

滑走路に使われた板ははがされ、埋め立ててあった砂は運ばれたとのこと。

その砂も途中から運び出すのが面倒になり、近くの伊久留川に捨てられたそうです。

ですので伊久留川の下流には砂がたくさんたまってちょっとした土地になり、

「伊久留の砂でできた土地だから、ここも伊久留や」と言ったとか言わないとか!

板は、戦後の日本復興のために各地で再利用されたそうです。

そして、アッという間に元の農地に戻ったそうです。

突然現れ、そして消え去った飛行場。当時の人々にしたら、台風の目のような出来事だったでしょうね。

後世に語り継ぐために記念碑を

「ここに、こうしてずーーーっと長い滑走路があってね、、、」

と説明してくださる作井吉雄さん。

当時のことは鮮明に覚えているそうです。

伊久留地区では、この歴史を風化させず記録に残そうと、地区誌である「伊久留区誌」が発行されています。

「伊久留区誌」の編集長であったのがこちらの作井吉雄さんです。

2021年現在、なんと94歳です。年齢を感じさせない記憶力と正確な情報。そして後世に伝えていこうという熱い思いに感銘しました。

現在も、当時の思い出を頼りに来訪する方がいらっしゃるそうです。

当時、この地に分宿していた兵士が、温かく迎えてくれていた人の恩を忘れることができないまま、病死されたとのこと。

そのご遺族が遺品を持参してこの滑走路のあった地に埋めて欲しい、ということがあったそうです。

年月を経て、当時を知る人が少なくなっていきます。

この「相馬飛行場」を風化させないためにも語り継いでいきたい、との思いで町をあげて記念碑建立に尽力されました。

のとルネでもしっかりと語り継ぎたいと思いました。

【相馬飛行場 詳細】

住所 七尾市伊久留町 相馬小学校運動場の一角

駐車場 記念碑の前に2~3台可能

 


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