七尾市長が描く!「オール能登」で「みんなの笑顔が輝く町」づくり|七尾市

能登半島地震から、季節は移ろい、復旧・復興への歩みは続いています。未曾有の災害に見舞われたあの日、七尾市はどう動き、そして今、どのような未来を描いているのでしょうか。茶谷義隆七尾市長に、震災当日の緊迫した状況から、直面した課題、そこから得た教訓、そして「オール能登」で目指す希望の未来図まで、胸の内を語っていただきました。市民の皆様、能登に関わる全ての皆様と共に、前を向いて進むための道しるべとなればと思います。

発災時の状況

「普段なら年末年始は子供たちも帰省して賑やかなのですが、あの日、大晦日に皆が帰った後で、家内と母と3人、久しぶりにのんびりとテレビを見て過ごしていました」

茶谷市長は、震災当日の静かな始まりをそう振り返ります。しかし、その穏やかな時間は、突如として破られました。1回目の揺れに「大変だ」と感じた次の瞬間、想像を絶する本震が襲います。テレビは落下し、身を守るのが精一杯の状況。「鉄筋の自宅は構造的な不安はありませんでしたが、タンスが倒れるなど、室内は散乱しました」。幸いご家族は無事でしたが、直ちに津波警報が発令されます。市長はすぐに屋外へ出て、高台にある小丸山城址公園へと避難する人々を誘導しました。余震で瓦が落ちる危険を避けるため、道の真ん中を歩くよう声を掛け続けました。

その後、市役所へ駆けつけ、災害対策本部を設置。情報収集と対応に追われました。夜になり、被害状況確認に向かおうとする職員を「危険だから明るくなってからにするように」と制止したといいます。「職員の命を守ることが最優先でした」。かつて大阪で阪神淡路大震災を経験した市長は、今回の揺れがそれと同程度であると直感し、この地域では想定していなかった規模の被害を覚悟したといいます。

「臨機応変」な対応と今後の課題

税務署勤務時代に危機対応マニュアル作成に携わった経験が、フェーズごとの必要物資の予測などに役立ったと語る一方、市の既存マニュアルは「正直言ってほとんど役に立たなかった」と言われます。

「災害は想定通りには進みません。職員も被災し、揃わない中で、目の前の課題にどう対応するか。知恵を出し合い、臨機応変に動くしかありませんでした」

例えば、支援物資が届けば、担当部署に関わらず手の空いている職員全員で荷下ろしを行いました。避難所運営では、担当職員の疲弊を目の当たりにし、発災から1週間後には大胆な体制変更を決断。各地域の避難所に、その地域出身でリーダーシップのある職員を派遣し、住民と顔見知りの関係性を活かした運営へと切り替えました。

そして、最大の課題として痛感したのが「市民の防災意識」でした。
「もっと早く取り組めばよかったと反省しています」。

建物の耐震化や地震保険への加入など、事前の備えがあれば防げた被害や、早期の生活再建が可能だったケースもあったはずです。ファイナンシャルプランナー(FP)の資格を持つ市長は、健康診断と同じように、お金の面でも「万が一の備え」をしておくことの重要性を強調します。この教訓から、震災後にはFP協会と連携し、生活設計を見直すセミナーなども開催されました。

「行政に全てを委ねるのではなく、自助、共助、そして公助のバランスが大切だと改めて感じました」

「オール能登」の中心として描く、復興へのグランドデザイン

七尾市が掲げる復興のキャッチフレーズは「すべての暮らしと営みに幸せを-みんなの笑顔が輝く町-」。市長は、その実現に向けた「戦略的復興プラン」のトップに、「市民が日常の生活を取り戻すこと」を掲げます。

「まずは復旧ですが、ただ元に戻すだけでは人が離れてしまいます。『この地域に住み続けたい』と思える環境整備が不可欠です」

そして、七尾市だけでなく、能登全体を見据えた視点を強調します。「狭い地域で競争していても意味がありません。金沢や加賀エリアに対し、能登は『オール能登』で連携し、魅力ある大きなエリアを作っていく必要があります」。その中心となるのが七尾市です。奥能登(輪島市、珠洲市など)への玄関口として、情報発信や交通の要としての役割を担う覚悟です。例えば、のと里山空港を活かし、将来的な国際チャーター便の誘致なども視野に入れ、時間的な距離を縮めることで、能登全体の活性化を目指します。

実際、震災後、能登の首長たちはLINEグループで頻繁に情報交換を行い、連携を深めているといいます。「以前のような競争ではなく、今は連携すべき時だという意識を共有しています」。国への要望活動も合同で行うなど、「オール能登」の体制は着実に強化されています。

復興の鍵を握る「和倉温泉」と、世界とつながる未来

具体的な復興の重点課題として、市長は「和倉温泉の再生」を挙げます。

「和倉が復旧しなければ、能登の復興はありません。被災直後から、宿泊拠点の確保という観点からも、国に和倉への重点的な支援を訴え続けてきました」

単なる宿泊施設としてだけでなく、和倉温泉自体が魅力的な目的地となるよう、再生を図る必要があります。それは、観光客の誘致だけでなく、復興支援に訪れる人々を受け入れるためにも不可欠な要素です。

さらに、人口減少が進む中で、地域の歴史や文化を次世代に継承していくためには、「関係人口」の創出が鍵となります。市長は、その可能性を海外との交流に見出しています。

「十数年前に訪れたカンボジアで出会った若者たちは、日本の文化や安全性に憧れ、『日本に住みたい』と目を輝かせていました。そうした優秀な人材が能登に来て、地域の人々と深く交流し、能登の魅力を世界に発信してくれれば、大きな力になります」

単なる観光客としてのインバウンドではなく、人と人とのつながりを重視した交流です。現在、市内では多くの外国の方が働いていますが、地域との関わりは希薄です。そこで、パトリアでの文化交流イベントや地域行事への参加を促進し、真の交流を生み出そうとしています。また、コロナ禍で中断していた海外の姉妹都市との交流も再開させる方針です。「能登の豊かな自然、食、そしてのどかな雰囲気は、海外の人々にとっても大きな魅力となるはずです」。

復興に向けて、市民へのメッセージ

震災を経て、市民の意識にも確かな変化が生まれていると茶谷市長は感じています。地域づくり協議会や町会で自主的な防災訓練が行われるなど、「自らの町は自ら守る」という動きが活発化しているのです。市長は、全国から駆けつけたボランティアの「自分たちができることを、自己完結で行う」という姿勢から、市民が多くのことを学んだのではないかと見ています。

「『行政に何かしてもらう』だけでなく、『自分でできることは自分でやる』という自助の意識が高まってきたと強く感じます。これは、将来起こりうる災害への備えとしても、非常に大きな財産になるはずです」

もちろん、復興への道のりは決して平坦ではありません。住環境の整備や、なりわいの再生など、課題は山積しています。茶谷市長は、被災者が孤立しないようコミュニティ形成を支援し、生活再建に向けたきめ細かなサポートを行っていくと約束します。その上で、市民に向けてこう強く呼びかけます。

「本当に困っている時こそ、我慢せずに声を上げてほしいのです。行政や支援者に相談することが、生活を再建するための次のステップへと繋がります」

さらに、自身の経験を踏まえ、力強いメッセージを続けます。

「阪神淡路大震災の直後も、この先どうなるのかという深い不安に覆われていました。しかし30年経った今、街は見事に復興しています。能登も必ず復興します。決して悲観することなく、共に前を向いていきましょう」

市長自身、発災当初から意識的に前向きな情報発信を心掛けてきました。時には「市長はイベントばかりしている」という声が届くこともあったといいます。しかし、それらは全て「市民に少しでも元気になってほしい、笑顔を取り戻すきっかけを作りたい」という一心からの行動でした。

「私にとっての幸せとは、人と人とのつながりによって、この地域が発展していく様子を見ることです。市民のみんなの笑顔のために働くことに、私は市長としての何よりのやりがいを感じています」

市長のお話を伺い、復興は決して特別な誰かが成し遂げるものではなく、私たち一人ひとりの前向きな歩みの積み重ねから生まれるのだと、あらためて感じました。それぞれが自分の暮らしの場でできることに力を尽くし、互いに支え合いながら進んでいくこと。その先に、必ず能登の新しい未来が開けていくはずです。希望を手放さず、共に次の一歩を踏み出していきたい、そう強く思える時間となりました。


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