さはらファミリークリニック院長が語る、能登の地域医療と震災の現実

 能登の地に根ざし、子どもから高齢者まで「あらゆる世代のかかりつけ医」を目指してきた、さはらファミリークリニックの佐原博之院長。2024年元日の能登半島地震では、揺れが収まるや否や日本医師会の会長へ連絡を入れ、被災地での医療支援体制の構築に奔走しました。地域のお医者さんでありながら、同時に日本医師会の常任理事として国の医療政策に関わり続ける佐原先生に、震災前後の地域医療の姿と、これからの能登への思いをうかがいました。

医者の子が、自ら選んだ医の道

 佐原院長のお父様は、石川県七尾市で佐原病院を開業し、経営されていました。介護保険制度が始まる前から療養型の病院として長年ご高齢の患者さんを受け入れてきた、地域に深く根ざした存在です。しかし院長は、「医者の子だから医者になる」という道を最初は敬遠していたそうです。それでも、改めて自分が何を目指すのかを考えたとき、逆にお父様が医者でなかったら、医者を目指していただろうと気づかれたとのこと。

「ブラックジャックにも憧れていたし、人と接する仕事、人の命を助ける仕事ができるなら、多分自分は医師を目指してたんじゃないかなと」

そんな想いから始まった医師への道。しかし今、地域医療の最前線で奮闘し、国の医療政策にも声を届ける姿を見ていると、その選択に迷いのかけらも感じられません。

「あらゆる世代のかかりつけ医」というコンセプト

 2001年に能登へ戻り、父の病院で勤務していた佐原先生。2000年に介護保険制度が始まり、地域の高齢化が進む中、「高齢者医療と介護をもっと充実させたい」という思いから、2001年に能登島にケアハウスビハーラの里2005年にユニット型特別養護老人ホームのとじま悠々ホームをオープンしました。そして2004年、当時の佐原病院の向かいに現在のさはらファミリークリニックを開業します。


小児科医である妹さんとご自身、そして奥様で診療科を分担し、子どもからお年寄りまであらゆる世代のかかりつけ医を実現しようとしていたのです。

「かかりつけ医って、医師側から『私があなたのかかりつけです』と言えるものではないんですよ。患者さんが『この人に診てもらいたい』と感じた時に初めてかかりつけ医になれる。だから私たちは、信頼してもらえるよう努力し続けるしかないんです」

 施設設計にもこだわりがあります。当初は入口を入ると右側が小児科、左側が一般診療となっていたそうです。感染症を持つ子どもたちと他の患者さんが交わらないよう、動線を最初から分けた設計でした。

 その後、コロナ禍の際に、熱のある方と熱のない方で左右に分けるように動線変更を行い、そのスタイルが今も続いています。時代の変化に柔軟に対応しながら、地域で頼られる場所であり続けようとする姿勢が伝わってきます。

 病院内の至る所に、院長が撮影した写真が飾られており、訪れる方の目を楽しませています。高校時代写真部で鍛えた腕前は、七尾市の青柏祭のポスターにも採用されるほどです。

能登出身、初めての日本医師会常任理事へ

 3年前、佐原先生は日本医師会の常任理事に就任しました。能登出身者としては初めてのことです。国の審議会や委員会への参加は20以上にのぼり、「東京に行ったらもうずっと会議と準備」という状況だそうです。

佐原先生が取り組まれているのは、地域医療の明日を左右する重要な課題でもあります。

「病院の78割、診療所の4割が赤字という時代に、地域医療を守るために診療報酬をしっかり確保することを訴えるのも日本医師会の仕事です。インフレが進む中で、医療機関の単価だけが据え置かれる状況は、地域医療を崩壊させかねない」

 この役職が大きな比重を占めるようになり、以前は行っていた訪問診療が今は難しい状況とのこと。「いつか常任理事をクビになったら再開したい」と笑いながらも、日本全体の医療課題に向き合うことへの責任感をにじませます。

2024年元日――震災の瞬間、医師として動く

 202411日午後410分。佐原先生は自宅でご家族と過ごしていました。初詣から戻り、年賀状を整理していた時間です。娘さんとお孫さん達が一緒にいました。

 激しい揺れ。津波警報。車で高台へ逃げながら、佐原先生はすぐに次の行動に移ります。

「揺れが収まった後すぐ、日本医師会の会長と石川県医師会の会長に電話して状況を報告しました。そこから各医師会の対策本部が立ち上がっていった感じです。」

 3時間後、津波の危険が落ち着いたと判断して自宅へ戻ります。建物は無事でしたが、外構は被害を受けていました。すぐにクリニックへ。棚が全部倒れ、事務室は荒れ果てていました。しかし電気は通っていて、ワクチン用の冷蔵庫が稼働していたので安堵したそうです。

クリニックと施設が直面した現実

 13日にはクリニックの片付けを終え、4日から診療を再開。暖房のない診察室(ガス配管が被害を受けていたため)で、ダウンジャケットを着たまま患者さんと向き合いました。トイレの問題もありましたが、市が早々に仮設トイレを設置する対応をしてくれたとのこと。奥能登から避難してきた方、薬が手元にない方など、普段は来ないような患者さんも多かったそうです。

 能登島の施設も困難に直面していました。島にかかる2本の橋がどちらも通れなくなり、電気も水も止まりました。しかし事前に策定していたBCP(事業継続計画)に従い、島に住むスタッフが中心となって対応。3日目には橋が復旧し、もともと井戸水と浄化槽を使っていた施設は、他より早く水が使えるようになり、利用者さんのケアは継続できたようです。しかし、施設には深刻な被害が出ていました。

ケアハウスでは、5階建ての建物のエレベーターが止まり、足腰の弱い高齢の入居者のもとへ、職員が食事を運び上げ、入浴の際は2人がかりで抱えて階段を上り下りする日々が3ヶ月続きました。この状況はテレビのモーニングショーでも取り上げられました。

ユニット型特別養護老人ホームでは、1つのユニットが大きく損壊し、入居者を安全な別のユニットへ移動させることに。損壊したユニットの修繕は1ユニットずつ順番に行い、全て終わるまでに1年かかりました。その間、入居できる定員は6分の5に減少。建物の修繕費用は補助金で一部まかなえたものの、自己負担もかなり大きく、さらに入居者が減った分の収入減も重なって、大きな赤字を抱えることになりました。コロナ禍のダメージに続いてのインフレ、そして震災——「この数年間、医療機関や介護施設の経営は本当に厳しかった」と先生は振り返ります。

JMATの司令塔として――支援の指揮を執る

 一方で佐原先生は、日本医師会の常任理事として、もう一つの役割を果たし始めていました。13日に石川県医師会からJMATの先遣部隊が来て情報交換した上で、15日、日本医師会がJMAT(日本医師会災害支援チーム)の正式派遣を決定。全国から集まるJMATチームを能登へ振り分け、どこにどのチームを送るかを調整する拠点が、佐原先生の活動の場となります。

18日に能登総合病院のDMAT(災害派遣医療チーム)の活動拠点と同じフロアにJMATの支部を作って、そこへ毎日通いました。全国から来るチームに、今ここにこういうニーズがある、こう動いてほしいという指示をし続けました」

 116日に保健所へ設置された能登中部保健医療福祉調整本部には、医師・歯科医師・看護師のほか、DMAT、リハビリの専門チーム(JRAT)、ケアマネジャー協会、栄養士会、そして警察署や消防署まで、毎日一堂に会して会議を開きました。七尾市・能登町・羽咋・志賀町のエリア全体で、今どこに何が必要かを共有し、各チームを送り込んでいく——その調整の場が、毎日の会議でした。

「医師会だけではなく、歯科医師会・看護協会・栄養士会・リハビリ・ケアマネ協会、本当にいろんな方が関わった。医療や介護に関わる人たちがみんなで頑張った、というのが正直な実感です」

能登半島地震の最大の特徴は、道路が通れず電車も来ないという交通インフラの機能不全でした。支援に来たくても来られない——これが、他の震災にはない能登固有の難しさでした。

一方、コロナ禍の経験がプラスに働いた場面もありました。Web会議が当たり前になっていたことで、全国の都道府県医師会長・災害担当理事が一斉に参加するウェブ会議を素早く開催でき、佐原先生が現地の状況をリアルタイムで説明することができました。JMATの本部との連絡もスムーズで、「コロナ禍での経験がなければここまでうまく動けなかった」と先生は言います。JMATの活動は5月末まで続きました。

震災が浮かびあがらせた、地域医療の本当の課題

 実は能登半島地震が起きた日、1月1日の新聞の一面には能登北部4病院の統合計画が掲載されていました。医師不足・経営難という構造的な問題が、震災の前からすでに能登の医療を追い詰めていたのです。

 七尾市内でも、開業医の数はここ数年で大きく減りました。これは能登だけの話ではなく、日本中の地方都市で起きている現象です。医師の数自体は増えているのに、都市部に集中し、地方への医師配置が進まない——いわゆる「医師偏在」という問題です。

「元通りに戻しても、元々の問題が解決するわけじゃない。震災によって、10年・20年後に訪れるはずだった危機が、今ここにやってきてしまった感じです」

 一方で、震災を通じて可能性も見えてきました。コロナ禍で普及したWeb会議の仕組みを使い、全国の医師会と状況をリアルタイムで共有できたこと。マイナンバーカードを活用したオンライン資格確認システムが、お薬手帳を持たずに避難した患者さんの薬情報を照会するのに役立ったこと。ICTが医療を支える場面が、現実に生まれていました。

「避難所に誰がいるかわからない、支援が届かないケースがあった。ICTをもっとうまく使えれば、必要な人に必要なケアを届けられるはず。震災はそれをはっきり教えてくれました」

医療の「三要素」のバランスという難題

 佐原先生が指摘する「医療の三要素」とは、アクセスの良さ・医療の質・費用の3つです。「この三つを全て高水準で保つのは、どこの地域でも難しい」と先生は言います。アクセスを良くすれば費用がかかる。質を上げようとすれば都市部に集約されてアクセスが悪くなる。費用を下げれば質もアクセスも犠牲になる。

 日本はこれまでそのバランスが比較的うまく保たれてきましたが、これからの時代はそうもいかない。能登はその問題を、地震によって1020年早く突きつけられた地域なのだ——と、先生は静かに、しかし確かな言葉で語りました。

和倉温泉の復活を願いながら、能登の未来を描く

 佐原先生にとって和倉温泉はまさに地元であり、長く深いご縁があります。

「和倉温泉が早く復活してほしいんです。うちに通っていた旅館の従業員さんが、仕事がなくなって実家に帰りましたって。そういう話を聞くのが、やっぱり寂しい。温泉が戻れば、また人も戻ってきてくれるかもしれない」

 地域医療については、「全ての場所の近くに医療機関を作ることはできない。今ある資源をいかに有効活用するか」と現実的な視点で語ります。訪問診療にオンライン診療を組み合わせること。2040年を見据えた地域医療構想の議論を丁寧に積み重ねていくこと。

 日本医師会の常任理事として、佐原先生は医療DXいかに適切に進めるかを問い続けています。便利さや効率だけを追求すれば、ICTに不慣れな高齢者が置き去りになる。しかし現状維持では、地方の医療が立ちゆかなくなる。そのバランスを見極めることが、次世代の医療を守ることだと言います。

「能登は、日本が将来向き合わなければならない課題を、先行して経験しています。ここでどういうモデルを作れるか。それが問われていると思っています」

能登で生まれ、能登で育ち、能登の患者さんに寄り添い続けてきた佐原先生だからこそ、能登をモデルケースにするという言葉には、単なる政策論を超えた重みがあります。地域医療の現場を知り抜いた医師が、日本医師会の常任理事として国の医療政策にも関わっている——これほどその役割にふさわしい方はいないのではないかと、取材を通じて強く感じました。能登の復興と、日本の地域医療の未来と、その両方を背負って歩む佐原先生のこれからのご活躍を、心から期待したいと思います。

医療法人社団和泉会 さはらファミリークリニック 施設詳細

所在地:石川県七尾市 石崎町 タ部13番地1
電話番号: 0767-62-3765
FAX番号 :0767-62-3733
代表者 :理事長 佐原 博之
業務内容
 クリニック/在宅介護支援センター/通所リハビリセンター/訪問介護
診療科目
 小児科/内科/外科
診療時間
 月・火・水・金  9:00-12:00  14:00-17:00
 木・土      9:00-12:00  午後休診
休診日 日・祝および木・土の午後 / お盆・年末年始


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