なくして、はじめて気づいたもの——珠洲から高松へ、物応明さんが歩いた再起の道

石川県珠洲市で23年にわたり接骨院を営んできた物応明(もつお・あきら)さん。能登半島地震で店舗も自宅も大きな被害を受け、いったんはすべてを手放す覚悟をしたところから、物応さんの新しい物語がはじまりました。今はリカバリーひづきモツオ接骨院を高松の地で営む物応さんに、震災前の歩みから避難生活、そして再起までの日々をうかがいました。

保険治療から「セカンドスキル」へ、23年の歩み

物応さんが珠洲で接骨院を開いたのは1999年のこと。20代を大阪で過ごし、修業を積んだのち地元にUターンし、自分の資本であらためて開業したといいます。最初の20年は、ケガによる保険治療を中心にした、いわゆる接骨院としての施術。制度上、扱えるのはあくまで転んだ、ぶつけたといった外傷性のケガに限られ、慢性の痛みには保険が使えないという制約がありました。

20年という節目を迎えた後は、思い切って保険の枠を外れ、慢性の痛みや予防にも幅広く対応できる自由診療へと軸足を移します。「定年退職した後に趣味を実益にする、あの感覚でやりました」と物応さんは振り返ります。自由診療に切り替えてからおよそ1年後にコロナ禍が重なり、さらに苦しい時期を経て、切り替えから丸4年が経とうとしていたところに、地震が起きました。

元日、すべてが消えた

物応さんの自宅と店舗があった珠洲市宝立町(ほうりゅうまち)は、大きな被害を受けた地域のひとつでした。自宅で被災し、隣にあった頑丈な車庫で車中泊をしながら、いったんは近くの高台へ避難したといいます。

店舗の被害を確認できたのは翌2日。自動ドアは吹き飛び、本棚や什器はすべて倒れ、雨風と雪混じりの水が入り込んだ店内を目にした瞬間の気持ちを、物応さんは絶望という言葉で表現しました。地震保険の担当者からも「直しても将来的に強度がもたない」と率直に告げられ、その場で再建を諦めたといいます。「なんとかしようというショックすら通り越して、もうダメだという感覚でした」。断水と余震が続くなか、当たり前だったトイレも入浴も使えなくなり、しばらくは「え? え?」という疑問符だけが頭の中を巡っていたそうです。

あてのない避難生活

14日、物応さんは金沢方面へ向かいます。珠洲の隣町、穴水(あなみず)を抜けて高松に入ったところで立ち寄ったコンビニで、ごく当たり前にトイレを使えたことに、物応さんは深く心を動かされたといいます。「珠洲ではどこもトイレが使えず、我慢するしかありませんでした。ここに来て、座って用を足して手を洗えたことに、涙が出るほど感動したんです。当たり前が失われて、はじめて気づくものがありました」。14日という日は、今も物応さんの中でひときわ強く残っているそうです。

同じ日、知人の紹介でかほく市の空き店舗を内見しましたが、貸主のご家族の事情から借りることは叶わず、そこから金沢の実兄のもとに身を寄せる日々がはじまりました。テレビをつければ地震のニュースばかりで、なかなか希望の持てる話題に出会えず、気力も湧かないまま、隙間を見つけてはアパートを検索し続けたといいます。金沢や白山市の物件情報はすでに探す人でいっぱいで、思うように見つからない日々が続きました。2月に入り、ようやくかほく市高松のFみなし仮設住宅への入居が決まります。

珠洲を離れる、という決断

避難生活のさなか、物応さんに大きな迷いはなかったといいます。30歳を前に離婚を経験し、身ひとつで珠洲へUターンした物応さん。震災が起きる少し前には、ご両親を見送ることもできていました。「守るべき家族もいなかったぶん、自分さえどうにかすればいいという身軽さがありました。良い意味でも悪い意味でも」。冷静な判断というよりは、目の前のことをひとつずつこなすしかなかった、と物応さんは当時を振り返ります。実際に住民票を珠洲から早々に移したことで、被災地再建向けの補助制度の多くが対象外になってしまったといい、「そこは自分の見通しの甘さでしたね」と苦笑いも見せてくれました。

一杯のお茶と和菓子の縁——高松との出会い

みなし住宅で暮らしながら周辺を歩くうち、以前は内科医院に付属する薬局として使われていた空き店舗を見つけます。紹介してくれたのは、その医院が規模を拡大して移転した先の院長先生でした。ハウスクリーニングをした程度で、ほぼそのまま使える綺麗な状態だったその物件を見て、物応さんはその場で入居を即決したといいます。

 

そのきっかけをつくったのは、近くの和菓子店の女将さんでした。仏壇代わりに位牌を置いていたみなし住宅で、お供えするお菓子を求めて、物応さんがその店にはじめて足を運んだ日のことです。まだ何も買っていない、名乗ってもいない、見ず知らずのはずの物応さんに、女将さんは「お兄さん、そこ座って」と声をかけ、抹茶とどら焼きをすっと出してくれたといいます。戸惑いながらいただいていると、「あんたどこの人?」と何気ない会話がはじまり、数か月前に珠洲から来たこと、地震のことを話すうちに、女将さん自身も震災のボランティアに出ていたことがわかりました。

「何をしていた人なの」「接骨院をしていました」と答えると、女将さんは「もったいない、お店しないの」とすぐさま返し、「場所がなくて」と物応さんが言い終わらないうちに、「ここに(高松に)してよ! 空き家いっぱいあるから」と勢いよく背中を押してくれたそうです。以前から目をつけていた物件のことを伝えると、女将さんはその建物の大家である内科医院の先生と顔なじみで、「知っているなら早いわ、私が言ったるし、行ってこい」とその場で話をつないでくれました。何も持たない一人の客に、これほど親身に手を差し伸べてもらえたことを、物応さんは今もはっきりと覚えているといいます。「知り合いも何もない土地で、あんなふうに迎え入れてもらえるとは思っていませんでした。ちょっと奇跡みたいな話です」と物応さんは振り返ります。

「捨我得全」——倫理法人会が教えてくれたこと

高松に来てから、物応さんの心の支えになったのが倫理法人会でした。知人から「一人で孤独になるな、まず人とつながれ」と勧められ、車とスマートフォンさえあればと、ほぼ毎日、金沢周辺のモーニングセミナーに通ったといいます。「いらっしゃいませ」「おはようございます」と迎えてくれる前向きな雰囲気に触れるうち、少しずつ心が晴れていったそうです。

中でも深く響いたのが捨我得全(しゃがとくぜん)という言葉でした。すべてを失った状況で出会ったこの教えに、物応さんはあえて手放すことで、かえって全体を得るという考え方を重ね、多くの会員さんが勧める100日実践として、トイレ掃除や神棚・仏壇のお参りなどをやってみたそうです。「なんで自分だけこんな目に、と思っていたのが、たった100日でこんなに変わるものかと。裏切られませんでした」。実際、位牌を丁寧に祀っていたことが、あの和菓子店の女将さんとの出会いにもつながったのだと物応さんは振り返ります。

今、そしてこれから

20247月、高松の地にリカバリーひづきモツオ接骨院がオープンしました。最初のお客様は、近所の旅館の女将さんだったといいます。「今まであっちこっち行ったけど、あんた、良いね」の一言をきっかけに評判が広がり、今ではそのご家族や口コミを通じて、多くの方が訪れているそうです。

月に一度は珠洲へも足を運び、「物応さんじゃないと」という以前の患者さんのために出張施術を続けています。将来的には、コンテナハウスを活用した珠洲での拠点づくりも構想中とのことでした。

能登へのメッセージ

最後に、能登に思いを寄せる方々へのメッセージをうかがいました。「動物園の中の動物を見るような関わり方ではなく、実際に来て、地元の人と言葉を交わしてほしいんです」。一度きりの訪問で満足するのではなく、たとえ短い時間でも、コンビニでの何気ないひと言や、道ですれ違うときの挨拶から、その土地の人とつながってほしいと物応さんは話します。

派手な支援や報道だけでなく、日々畑を耕し、歩行器を押して買い物に出かける、そうした何気ない日常の営みにこそ目を向けてほしい――物応さんはそう繰り返します。「品物は一瞬でなくなりました。でも人は、少しずつでも前を向いて歩いています。そこにいる一人ひとりの言葉を聞いて、関わってほしい。それが本当の意味での支援になると思っています」。

23年続けた珠洲での歩みをいったん手放し、縁に導かれるように高松で新しい一歩を踏み出した物応さん。その姿は、これからの能登を考えるうえでも、多くのことを教えてくれるように感じました。

「リカバリーひづき」「モツオ接骨院」施設詳細

住所:  石川県かほく市高松ウ51-1
電話:   090-9440-7429

営業時間:10:00-20:00(予約優先 最終受付1900)
定休日:   日曜日
駐車場:  有り 3

料金:     6,600

公式HPhttps://ricovery-hiduki.studio.site

ピンチはチャンス!能登の未来へつなぐ、それぞれの復興物語 | のとルネ


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