能登半島地震を乗り越え、能登の食をつなぐ「のと里山食堂 然」新出さんの歩み|穴水町

金沢、そして東京・恵比寿へと店を広げてきた新出さんは、40歳を機に、生まれ育った能登・穴水へ戻りました。駅前で開いたイタリアンの店は、多くの人に親しまれていましたが、令和6年能登半島地震に見舞われます。自らの店を避難所として開放し、被災した人たちへ温かい食事を届け続けた新出さん。震災を経験した今も、能登の食と人をつなぐ歩みは変わりません。その足跡をたどると、復興のただ中にある能登の現実と、この地へ向ける静かなまなざしが見えてきます。 

金沢、東京を経てたどり着いた「穴水」という場所

新出さんは、もともと金沢で飲食店を数店舗経営し、その後は東京・恵比寿にも店を出していました。18歳まで能登で過ごした新出さんは、金沢、そして東京へと拠点を移す中で、離れて初めて能登の良さに気づいたといいます。趣味である自転車やトライアスロンを楽しみながら過ごしたいという思いも重なり、40歳を機に能登へ戻ることを決めました。そこで新たな拠点として選んだのが、母校があり、縁の深かった穴水でした。母校である穴水高校の存在や、駅前の活性化に取り組んでいた町からの後押しもあり、駅前でイタリアンの店を開くことになりました。 

能登半島地震、そのとき新出さんは

穴水駅前で店を営んでいた新出さんでしたが、コロナ禍を経て迎えた令和611日、能登半島地震が発生します。地震が起きたとき、新出さんは金沢の自宅にいました。今後の状況をある程度予測し、すぐに物資を積めるだけ積んで穴水へ急行。道路状況が悪く、引き返しては前へ進むことを繰り返しながら、12日の朝方にようやく穴水に到着します。 

自らの店を避難所に、数百食の炊き出しを支えて

到着すると、新出さんはすぐに仲間へ声をかけて集まってもらい、その場でテントを立て、自分の店を避難所として開放しました。こうして開設された避難所には、車中生活を送る人や、他の避難所から食事を求めて訪れる人など、さまざまな事情を抱えた人々が集まって合流。新出さんと仲間たちは、そうした一人ひとりに温かい食事を届けようと、休む間もなく、1回あたり約120食を13回、数か月にわたって作り続けたそうです。 

備えが支えた、避難所での日々

支えとなったのは、日頃からの備えでした。新出さんは18歳の頃から災害ボランティア活動に携わっており、阪神淡路大震災をはじめ、東北や中越、熊本の地震の際にも支援活動を行ってきました。18年前の能登沖地震の経験も踏まえ、水やガス、発電機、およそ1000人分の食料を常に店の奥に備蓄してあったといいます。この備えがあったからこそ、今回の地震による停電時にも、店舗だけは発電機で明かりをともすことができたそうです。

また、地震が発生した年、新出さんはちょうど穴水ライオンズクラブの会長を務めていました。その縁もあり、日本全国のライオンズクラブから支援が寄せられたといいます。 

全国から届いた支援と、揺れる心

知人の経営者からはダウンジャケット1000枚が運送費も含めて届けられ、穴水町の避難所を中心に配布しました。テレビの映像を見た見知らぬ人々から物資が届いたこともあったそうです。物資が足りなくなると、自ら費用も負担し、時にはトラックまで手配して金沢まで買い出しに行きました。

なぜそこまでできたのか。そう尋ねると、新出さんは「あんなことになったし、もう人生終わったなと思ってたんで」と、当時の心境を静かに語ってくれました。それでも数か月が経つ頃には、「生き残ったし、生きなきゃいけないな」という思いに変わっていったといいます。

公費解体を支えるために立ち上げた会社

5月の連休の頃、能登の復興は公費解体という新たな段階を迎えていました。解体業者が現地に入ることになったものの、食事をとる場所も水もない状況だったといいます。そんな中、新出さんのもとへ、金沢の宗重商店の宗守さんから連絡が入りました。かねてより親交のあった宗守さんから「食の部分で助けてくれないか」と頼まれたことをきっかけに、新出さんは、IS・フーズ・コミュニケーションズを立ち上げます。その会社で廃校になっていた穴水町内の学校を活用し、約200人が滞在できる環境を整え、そこで生活する人たちへ朝晩の食事を提供することになりました。避難所での支援に続き、新出さんの活動は、食を通して能登に寄り添う新たな形へと広がっていきます。 

能登空港に生まれた「のと里山食堂 然」

同じ時期、石川県が能登空港に仮設商店を整備するという話が持ち上がりました。震災で店を失った事業者が対象とされたこの企画に、新出さんは迷わず即座に手を挙げました。長年事業を続けてきた経験から、直感やタイミングを大切にして判断したそうです。厨房機器はすべて自費で新調し、5年間は家賃が免除される制度です。こうして生まれたのがのと里山食堂 然(ぜん)です。店名のは自然の然であり、能登の里山・里海をテーマにした食堂として、新出さん自身が考えたコンセプトが込められています。店の看板の文字は、珠洲市在住の書道家である知人に依頼して書いてもらったものです。

能登の恵みと、輪島塗に込めた想い

店では、契約農家から仕入れる能登産コシヒカリや、魚料理に使ういしるなど、能登の食材にこだわっています。食器には輪島塗をはじめとする漆器を使用していますが、これにも理由があります。震災で家を失い仮設住宅へ移る人々は、持ち出せる荷物が限られ、高級な漆器を手放さざるを得ませんでした。

新出さんはそうした食器を大切にしたいと思いから、買い取って、お店で使っています。

「県外から来た人が、こういう輪島塗の食器で食事をすると、気分も違うだろうし、能登を感じてもらえるかなと」

「あなみず餃子」に込めたふるさとの味

穴水町では、復興も含めた新しいまいもんの里づくりの一環として、新たなご当地グルメを作る取り組みが持ち上がりました。そこで監修を任されたのが新出さんです。海の物と山の物、両方の能登らしさを一皿に込めたいという考えから、能登のいしるや地元の切り干し大根を使い、東京の有名餃子店とともに約1年をかけて開発したのがあなみず餃子でした。昨年10月にお披露目され、現在は穴水物産協会加盟店で提供されています。全国の復興関連イベントにも足を運び、地元の牡蠣や能登ワインとともに紹介してきました。

震災から2年半、今も続く現実

震災から2年半が過ぎた今、新出さんは複雑な思いを抱えています。ライフラインは整ったものの、家を再建できる人とできない人の差は大きく、公営住宅への入居も数が限られています。「住んでる人たちが、幸せというか、日常に戻れて初めて復興なのかなと思います」。仮設暮らしがまだまだ続く現実は、住んでいる人でなければ分からない辛さがあると静かに語ります。

穴水駅前の店は震災後も残っていましたが、地盤の沈下などもあり、今年3月に立ち退くことになりました。10年続いた店に、区切りをつけた形です。 

震災が教えてくれたこと

震災は、人の良い面だけでなく、そうでない面も新出さんに見せることになりました。避難所の運営を通じて、近隣とのトラブルや心無い出来事にも直面し、辛い思いをされたそうです。

全国で地震が相次ぐ中、新出さんが伝えたいのは特別なことではありません。「せめて自分の身を守る準備だけはしといてほしいな」。その言葉は、誰よりも備えとの大切さと現実の圧倒的な厳しさの両方を知る人だからこそ、静かに重く響きます。 

これからも能登とともに

これから店をどうしていくか、5年後の明確な答えはまだ出せないといいます。災害の後は状況が急激に変わるものであり、復興が落ち着いた先に人口減少という現実が待っていることも見据えています。それでも、能登空港を訪れる全国からのお客さんに、能登の美味しいものを味わってもらい、そこから能登の復興につなげたいという思いは変わりません。

また、仕事だけではなく、自転車で風を切り、トライアスロンに挑む時間も楽しみたいと考えています。震災の年から一度も大会に出られていない今、その日常を取り戻すことも、前を向くための一歩なのかもしれません。

新出さんが監修したあなみず餃子や、想いを込めて選んだ輪島塗の器は、能登を訪れる人たちを迎える小さな橋渡しになっています。能登空港でのと里山食堂 然を訪れ能登の海と山の恵み、そしてそこに込められた物語に出会うことができます。

企業詳細

のと里山食堂「然」

住所 石川県輪島市三井町洲衛10-11-1

   のと里山空港第一駐車場内 NOTOMORI

 


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