「能登で出会った、にほんのこころ」氣月が描く、地域と共に生きる未来|羽咋市

 2024年元旦の能登半島地震から程なくして、神奈川県から能登にやってきた夫婦がいます。合同会社氣月の代表・和慈さんと美咲さんです。出会いから移住、結婚、起業まで、目まぐるしい変化を「激動だった」と笑いながら振り返るふたりですが、その眼差しには能登への確かな愛着と、地域とともに、この土地の良さを次世代へ繋いでいきたいという熱い想いがあふれていました。

「メディアでは分からない」——震災直後、ふたりは能登へ

 和慈さんは2002年から大手自動車メーカー向けのシステム開発を手がけてきた、現役のシステムエンジニアです。何万点にも及ぶ車の部品を管理する複雑なシステムを構築するプロフェッショナルで、「仕組みが分かると、世界の見え方が変わる」——その面白さに惹かれ、今も第一線を走り続けています。コロナ禍によるテレワークの普及が、その後の大きな転機となりました。

 一方、美咲さんは博士号を持つ薬剤師として、薬科大学で生薬・漢方の研究と教育に携わってきた大学教員でした。薬剤師を育てる立場として学生たちと向き合うなかで、「大学にいたままでは変えられないことがある」という想いを静かに抱え続けていたといいます。

 ふたりが出会ったのは、地震発生から約1か月後の20242月のこと。付き合い始めてわずか2か月後、最初のゴールデンウィークに「能登へ行こう」と声をかけたのは、和慈さんでした。

  

 「東日本大震災のときは、関東に住んでいながらも現地へ行けたのは数年後でした。そのとき、もっと早く行って被災地のために何か支援をしたかったという悔いが残っていて。それに、メディアで見る被災地はあくまで綺麗に切り抜かれたものでしかないと知ってしまったので、今回は、早い段階でどういう関わり方ができるのか、自分の目で状況を確かめたいと思いました」と和慈さんは振り返ります。美咲さんも迷いなく賛同しました。「体力的に力仕事は難しいけど、物を買ったり食べたりして、少しでも力になれたらいいな、と思っていましたから、ちょうどいいタイミングだねということで、ふたりで来ることになりました。」

能登の人の温かさが、決意を促した

 震災から4か月が経ったとはいえ、当時の能登はまだ復旧の途上でした。のと里山海道の路面は割れ、マンホールは飛び出し、珠洲市内のあらゆるものが傾いていて、行く先々の神社の鳥居や灯籠も崩れたままでした。それでも、訪れたふたりの胸に残ったのは、被害の大きさだけではありませんでした。

 「『もう人が住めない』と見捨てるような気持ちにはなりませんでした」と和慈さんは振り返ります。むしろふたりの胸に深く残ったのは、能登の人たちの温かさでした。お昼に電話したけれど通じなかったお店から、「今日は休みです。ごめんなさい」とわざわざ折り返し電話がかかってきたこと。場所が分からずうろうろしていたら、お店の方が外まで出てきて声をかけてくれたこと——細やかな心遣いの一つひとつが、ふたりの心にしっかりと刻まれました。

 「能登の方々と触れ合うなかで、ずっと昔から受け継がれてきた『にほんのこころ』を感じたんです。烏滸がましいかもしれませんが、これはどうにかして守っていきたい——そう強く思いました。」それが、ふたりの移住の決意の根底にあった想いでした。

 「帰り道の車の中で、能登に住むことを決めていました。ほとんど即決でした。」和慈さんのその言葉を受けて美咲さんも、「たぶん私が最初に、移り住むなら能登がいいと思う、と言ったんです。温度差はほとんどありませんでした」と笑います。そのとき、まだ結婚の話さえ出ていなかったとのこと。プロポーズより先に移住の話が決まるという、ふたりらしい逸話です。

結婚・移住・起業——後戻りしない決意で、すべてが動いた1か月

 移住を決めてからのふたりの行動は、驚くほど速いものでした。家を探し続け、9月には羽咋市に賃貸の住まいが見つかりました。しかし、和慈さんが在籍していた会社との調整がうまくいかず、最終的には仕事を辞めるという決断を迫られることになります。

 「神奈川にいたまま能登に関わると、結局は観光客的な関わり方になってしまう。地域に根ざした関係性の中で何かできないかと考えたとき、自分たちが引っ越して暮らす方がいいという話になって、会社を辞めることを決断しました」と和慈さんは静かに語ります。

 美咲さんも、すでに5月の時点で大学を辞める決意を固めていました。その背景にあったのは、ふと胸に浮かんだ想いでした。「ある時、『このまま横浜にいて、もし死んでしまったら絶対に後悔する』と思ったんです。自分が素敵だと感じた地、嘘偽りなく自分を生きられる予感のする地で生きてみたい——そう願ったとき、仕事があるとかないとかは、もう問題ではありませんでした。だから、移住しようと思った時点で、仕事を辞める以外ないと思っていたんです」と、美咲さんは穏やかに振り返ります。

 そして20251月、ふたりは同じ月のうちに結婚し、能登へ引っ越し、合同会社氣月を設立しました。怒涛の展開です。ご家族やご友人など親しい方々の反応はどうだったのでしょうか。和慈さんが、笑いながら答えてくださいました。

「結婚だけなら『おめでとう』だったんでしょうが、一気にいろいろありすぎて、周りのみんなは、どうリアクションしていいか分からないといった感じでした」と。

地域に根を張り、経済教室を始める——よそ者から、一員へ

 移住後、ふたりが最初に意識したのは、よそ者として地域にどう溶け込んでいくかということでした。「よそ者として入るわけですから、その場のやり方を尊重しなければいけないと思っています」と和慈さんは言います。

 まず飛び込んだのが、町会で教えてもらった地元の不動太鼓の保存会でした。そこから消防団に誘われ、地区の壮年団にも参加。溝掃除や草刈り、祭りにも積極的に加わっています。能登の伝統文化と地域の暮らしに、正面から向き合うふたりの姿勢が、地域との信頼関係を着実に育んでいます。

 その一方で、20256月からは最初の住まいである氣多大社の近くの一ノ宮地区を拠点に経済教室を開講。今では羽咋市の余喜地区や千里浜地区でも開催するほど広がっています。「経済って、難しい学問の話ではなくて、毎日の生活に関わることなんです。情報に踊らされず、自分の頭で考えて生きていくために、誰もが知っておくべき学びだと思っています」と和慈さんは熱く語ります。

 その一方で、美咲さんは、デザインやライティングはもちろん、ホームページのコーディング、AIを活用した業務自動化の設計まで、経済教室を中心とした和慈さんの活動を多方面から手がけています。和慈さんの取り組みを技術と表現の両面で形にしながら、自身も新たな構想を温めています。これまでの研究生活で培った漢方や薬草の知識を生かし、日本で大切にされてきた身近な薬用植物について、体験型のイベントを中心に、子どもから大人まで学べる場や薬草園をつくっていくことを目標にされているそうです。

古民家を、人が集う場に——自然と共に生きる暮らし

 移住当初は賃貸で暮らしていたふたりですが、昨年(2025年)11月、同じ羽咋市内の古民家へと住まいを移し、新たなチャレンジが始まっています。古民家には田んぼと畑がついており、しばらく耕作放棄状態だったところの草刈りや土起こしを進め、今まさに畑と田んぼ復活の準備が着々と進んでいます。

 敢えて就農ではなく、個人として携わっている田畑への想いも、ひと味違います。「単に農業をやりたいとか、自給自足したいというよりも、自然を味方にした栽培方法で育った固定種の種を残したいんです。能登で育ったものは能登で育ちやすい。そういう種を増やしていって、困った人がいたときに作物を分かち合うだけでは一時しか凌げませんが、23粒でも種を渡せれば、そこからまた増やせると思うんです」と美咲さん。地域の食の自立を見据えた、穏やかながらも力強いビジョンです。

 また、古民家を人が集まるコミュニティの場としても育てていく構想があります。「農家だけが農業をやっているから、効率を求めざるを得なくなっているし、それが栽培方法へも影響してしまう。だから、みんなで半自給自足のような形で少しずつ農に関わる方がいいんじゃないかと思っています。それが地域を守ることにも、食を守ることにもなる」とふたりは言います。能登の外からやってきたふたりですが、能登の里山里海の文化が培ってきた共に生きる精神が、不思議と息づいています。

自分を信じる力を次世代に

 美咲さんが大学教員を目指したのは、薬学の世界に問題意識があったからでした。「普通に薬剤師になってしまうと、日々の業務にもまれて終わってしまう。学生の段階で意識が変われば、業界も変わるかもしれないと思って大学教員を目指しました。」大学院で研究を深め、10年近く学問を深めた末に教壇に立ちましたが、現実はそう甘くありませんでした。

 「なぜ薬剤師になろうと思ったの、と聞いても、親に勧められたから、先生に言われたから、化学の点数が良かったから、という学生がたくさんいました。命を扱う仕事なのに、そういう理由なんです」と美咲さんは静かに語ります。研究室を選ぶ段階になっても「あまり考えていないです」と返してくる学生の多さに、美咲さんは危機感を募らせました。さらに印象に残ったのは、学生たちの学び方そのものでした。「授業の受け方の授業が必要だったり、答えだけを聞きたがって、考えようとしなかったり。過程が大事なのに、とにかく暗記しようとする。自分の未来に希望を持てず、課題に対しても安易に済まそうとする、この子たちが数年後に社会に出て大丈夫なのかな、とすごく心配になりました。」

 そこから見えてきた結論は、「大学では遅い」ということでした。「そもそも、この子たちが生きていく上で欠かせない土台部分に問題が山積している。大学では遅い、高校でも遅いかもしれない、低年齢の段階から関わらないと解決しないと思いました」と美咲さん。大学教員という立場を外れ、子どもたちの将来を輝かせることに全力を注ぎたいという想いが、移住決断の一つの大きな柱にもなっていました。

 和慈さんも、同じように課題を捉えています。「先人たちがあって、今の自分がある——その観念が抜け落ちると、自尊心が低くなって、何かをやり遂げる動機が『今の自分』だけになってしまう。歴史が自分と今にどう繋がっているかを学べば、簡単に物事や日本という国を諦められなくなるはずなんです」——とはいえ、いきなり歴史を入り口にしても、興味を持ってもらいにくい。だからこそ和慈さんは、生活から切り離せない経済を入り口に据えました。社会の仕組みや自分との繋がりを、身近な視点で分かりやすく伝えることで、ひとりひとりが自分の頭で考え、自分を信じる力を取り戻してほしい、というのがふたりの願いです。

 能登という土地は、そんなふたりにとって理想の舞台でもあります。豊かな自然、伝統文化、地域の人とのつながり——そういったものに囲まれた環境で、子どもたちが本物の学びを体験できる場をつくりたいと考えています。古民家を拠点にしたコミュニティづくりも、経済教室の展開も、その大きな構想の一部です。答えを与えるのではなく、一緒に考え、感じ、動く——そういう学びの場を能登から発信していこうとしています。

能登が選ばれる理由——日本の「心」が残っている

 なぜ長野でも他の地方でもなく、能登だったのか——。あらためてそう問うと、和慈さんはこう言いました。「空気感としか言いようがない部分もありますが、人の温かさが大きかったです。自分がどんな状態にあっても、相手を気遣う心を忘れない、そういう『にほんのこころ』が残っていることを旅先で強く感じたのは初めてで、ここに住もうと自然に思えました」

 震災直後の能登を自分の目で確かめ、帰り道で移住を決め、プロポーズよりも先に移住の話が決まった——そんな縁の深いふたりが、今では不動太鼓を叩き、消防団に参加し、田畑を耕し、教室を開いています。

 「本当に激動の2年間でした。振り幅が大きすぎます」と笑いながらも、その顔には充実感がにじんでいます。合同会社氣月が能登に刻んでいく物語は、まだ始まったばかりです。

合同会社氣月 企業詳細

住所 石川県羽咋市寺家町セ26番地2

電話番号 080-1589-2221

営業時間 年中無休(365日、24時間)


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