
能登への入り口、美しい里山と里海に囲まれた宝達志水町。この町で、道路を直し、インフラを守り、そして町の未来を議会の場からも見守り続けている一人の男性がいます。
有限会社北本工業の経営者であり、32年にわたり町議会議員を務めてこられた北本俊一さんです。
2024年元旦、能登を襲った未曾有の大地震。北本さんが語ってくださった言葉の一つひとつには、単なる復旧という言葉には収まりきらない、この地で生きる次世代への深い愛情と責任が詰まっていました。
北本さんの歩みと、その胸に秘めた熱い想いをお伝えします。
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働く背中が教えてくれた「北本工業」の原点
北本工業の歴史は、北本さんのお母様がダンプを運転していた「北本商店」という個人事業から始まりました。
「昔はね、うちの母親がダンプを運転して、舗装屋さんの仕事をずっと手伝っとったんや。あの頃、女性の運転手なんて本当に珍しかったけど、誰よりも働き者やったわ」
そう懐かしそうに目を細める北本さん。お父様はもともと漁師をされていましたが、漁がない時期はお母様と一緒に建設現場で汗を流していたそうです。
一生懸命働く親の背中を見て育った北本さんは、20代の終わりに今の北本工業を設立しました。
現在は息子さん二人と娘さん、そして信頼を寄せる従業員さんと共に、家族のような絆で道路工事や土木作業をこなしています。家族で守り抜いてきた会社だからこそ、地域に対する愛着も、インフラを守るという責任感も、人一倍強いものでした。その強い根っこが、今回の震災においても大きな力となったのです。
2024年1月1日。リーダーとして、一人の住民として
令和6年能登半島地震が起きたあの時、北本さんは地元の神社の当番を終え、自宅でようやく一息ついていたところでした。16時過ぎ、突然突き上げるような揺れが襲いました。
「一回揺れた後に、すぐ二回目に大きいのが来た。家は潰れんやろうけど、ガラスは割れるなと感じるくらいの凄い揺れやった。あんな揺れは、長い人生で初めてやったね」
宝達志水町でも激しい揺れを記録し、すぐに津波警報が鳴り響きました。北本さんは、即座に奥様や家族を車に乗せ、高台にある親戚のお寺へ避難させました。しかし、北本さん自身は一人、集落に残る道を選びました。
「私は行けん。立場上、集落の様子を見て回らんなんし、皆がどうしとるか確認するのが私の役目やから」
避難所となった公民館には、不安な表情を浮かべた住民が200人近く集まっていました。凍えるような寒さの中、暖房設備も十分ではない避難所で、住民同士が身を寄せ合って夜を過ごしました。
夜の21時を過ぎた頃、お寺の奥様が差し入れてくれたお菓子や飴を皆で分け合ったとき、北本さんは備蓄というものの大切さを知ったと言います。
「あの時のお菓子は、本当にありがたかった。不安な中で甘いもんを口にすると、少し心が落ち着くげんね。行政に頼り切るんじゃなくて、各集落の会館に、自分たちで最低限の食べもんと水を置いておかなだめやと、あの夜に強く思ったわ」
地域のリーダーとして住民の不安に寄り添い、共に寒さに耐えたあの日。北本さんの復興への決意は、この避難所での経験から固まっていきました。

「道を繋ぐ」という使命。能登の奥地へ
地震から約1ヶ月。地元の小規模な修繕が一段落すると、北本工業のダンプと重機は能登のさらに北、被害の激しかった地域へと向かいました。
特に印象深いのは、能登町にある九十九湾の名宿百楽荘付近の道路復旧です。
「道路が陥没して大きな段差ができとった。車が通れなきゃ物資も届かんし、人も戻ってこれん。監督と一緒に土のうを積んで、まずは応急的に車が通れるように道を繋いだんや。一週間、二週間と、ひたすら通い詰めたね」
しかし、そこへの道のりは過酷そのものでした。のと里山海道は至る所で寸断され、通常なら2時間半で帰れる距離が、渋滞で4時間半、5時間かかることも珍しくありませんでした。
「運転しとるだけでヘトヘトや。でも、道を直さんなんだら復興は始まらん。それが自分たちの仕事やからね」
その後、さらに北の珠洲市正院地区にも入りました。そこには、倒壊した建物が撤去され、更地になった場所に割れた擁壁(ようへき)や土間だけが残る切ない光景が広がっていました。
「家はもうない。でも、その残った土台や壁を綺麗に直さんなんだら、そこにまた新しい家を建てようっちゅう気持ちになれんやろ。3ヶ月間、ほぼ一人で現場を回した時期もあったけど、被災した人の気持ちを思えば、休んどる暇なんてなかったわ」
北本さんの手によって修復された一つひとつの「道」や「壁」。それは、被災された方々が絶望の中から再び立ち上がるための、大切な最初の一歩を支える仕事だったのです。
議員として、一人の「じいちゃん」として
北本さんは、建設会社の経営者であると同時に、30年以上のキャリアを持つ町議会議員でもあります。お祖父様の代から続く地域のために尽くすという志が、彼の血には流れています。
北本さんが議会の場で、そして地域の集まりで、長年訴え続けてきたことがあります。
「なんぼお金があって立派な家を作ったって、子供のいない寂しい家には未来はない。町も一緒や。子供の声が聞こえてこんようになった町は、いくら道路が綺麗になっても、それは本当の復興とは言えん」
この言葉の裏には、北本さんの個人的な、そして深い愛情に基づいた理由があります。北本さんには、なんと14人のお孫さんがいらっしゃいます。
「孫が14人おるんや。そのうち男が12人も。毎日賑やかやぞ。この子たちが将来、この宝達志水町に住み続けたいと思えるか。そのために、あと5年、10年は死ぬ気で頑張らなと思っとるんや。自分の代だけが良けりゃいいという考えは、私は大嫌いや。次、その次の代に、この町をどんな形で繋いでいけるか。それが私の最後の奉公やわ」
若いときのように無理がきかない、疲れたと感じることもあるそうです。それでもなお、重機に乗り、議会に立ち続けるのは、14人のお孫さんたち、そして町に住む全ての子供たちの未来を背負っているという自負があるからです。
次世代を呼び込む「新しい町のカタチ」
人口減少という、能登全体が抱える重い課題。北本さんは「人口を増やすのは無理や。でも、減るスピードを緩やかにして、若い人を呼び戻す仕組みは作れる」と説きます。
そのために北本さんが具体的に提案し、町で検討され始めているのが一軒家形式の町営住宅です。
「アパート作ったって、定住はせん。やっぱり自分の家を持ちたいというのが若い人の願いやろ。町で一軒家を建てて、そこに安く住んでもらう。20年間、家賃をしっかり払ったら、その家と土地はそのまま自分のものになる。そんな方式を他県の事例から学んできたんや。ローンを背負わずに自分の家が持てるなら、若いもんだってここに来てくれる。そうやって腰を据えて、子供を安心して産んで育ててほしいんや」
この案は、単なる住宅政策ではありません。建設のプロとしての知見と、議員としての町の将来設計、そして「子供を増やしたい」という一人の祖父としての願いが融合した、北本さんならではの復興案なのです。
「宝達志水町はね、空気はいい、水もいい、海も山もある。金なんかな、あってもなくてもええ。子供の笑い声が響いとる町が、一番幸せなんや。」
能登にまかれる「希望の種」
北本さんへの取材を通じて、私は復興という言葉の本当の温かさを教えていただいた気がします。
壊れた道路を直すのは、車を走らせるためだけではない。
その道を通って、子供たちが元気に学校へ通えるように。
その道を通って、若い世代が新しい生活を築けるように。
北本さんの工事現場での汗、議会で響かせる熱い言葉。そのすべては、14人のお孫さんたちを含む、能登の次世代の未来へと繋がっています。
「子供の声が聞こえない町に、未来はない」
この言葉を胸に、北本さんは今日も現場へ、そして町の人々の中へと走り続けます。その背中には、震災で傷ついた能登の地に、再び明るい笑い声を取り戻そうとする、揺るぎない覚悟が刻まれていました。
有限会社北本工業 企業詳細
住所:石川県羽咋郡宝達志水町北川尻ム26
電話番号 0767-28-2115
業務内容 土木工事 舗装工事


















